展示
ふたつの「相州鎌倉之図(そうしゅうかまくらのず)」
学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。
2026年4月の逸品
ふたつの「相州鎌倉之図(そうしゅうかまくらのず)」
スギ花粉の飛散も少し落ち着いて、家に閉じこもっているのがもったいなく感じられる季節になりました。花見を兼ねていつもより少し遠く外出したくなる方も多いのではないでしょうか。
鎌倉は神奈川県内でも人気の観光地のひとつに挙げられるでしょう。旅が盛んになった江戸時代にも、江戸から近い距離にある鎌倉は、近隣の金沢、江の島などとあわせて気軽に遊覧することのできる場所でした。
今月紹介する逸品はふたつの「相州鎌倉之図」です。
ひとつめの「相州鎌倉之図」(図1)は木版刷りの都市案内図です。
鎌倉絵図は、鶴岡八幡宮と若宮大路を中心に鎌倉周辺の名所をデフォルメ化して描いて人気を博し、木版刷りのものは万治(1658~)年間頃から近代まで50版以上刊行されました。本資料の図柄は、明暦・万治年間刊行の同名図を縮小・再編し、寛文・延宝年間に作成されたと考えられています。本資料の刷りはもっと新しいものかもしれませんが、図柄は鎌倉絵図の最初期のものといえます。版元は不明ですが、描かれた内容から鎌倉の版元ではなく、はやくから都市図を刊行していた江戸・大坂・京都の書肆(しょし)であろうと推測されます。
ふたつめの「相州鎌倉之図」(図2)は1m四方ほどもある肉筆彩色絵図です。裏面の「積徳堂(せきとくどう)」の朱印(図3)からもともとは兵学者・山鹿素行(やまがそこう)の創始した山鹿流兵学の積徳堂文庫に収まっていた図であることがわかりました。「相州謙(ママ)倉之図」の墨書の横に記された作者「宗直」の素性はわかっていませんが、国文学研究資料館所蔵の積徳堂文庫に残る資料から、延宝年間(1673~)に活動した人物であることがわかっています。近世兵学、特に山鹿流の原始である甲州流兵学においては、城郭の曲輪や構造を示す縄張図、各合戦の陣形を学ぶ合戦図など絵図作成とその添削が重要な教導のひとつでした。素行の師であり甲州流兵学の流れを汲んだ北条流兵術始祖の北条氏長(ほうじょううじなが)は、幕府大目付として正保国絵図再編を主導したことでも知られます。
この鎌倉の図がどのように教導に利用されたかは判然としませんが、中国古典ばかりでなく日本のことを知ることが重要であると素行が説くように、日本の地理・歴史への知識を深める目的で使用されたとも考えられますし、武家政権の拠点を描いたひとつの縄張図として利用したとも考えられます。
ふたつの図は、いずれも中央に鶴岡八幡宮を描きます。案内図である図1は本社よりも「八幡宮」の額がかかった楼門が目立ちますが、「若宮」「仏蔵(経堂のことか)」「こまたう(護摩堂)」「大たう(大塔、多宝塔か)」など諸建築をも立体的に示しています(図4)。一方図2は黄色の楕円内に「鎌倉山」と示された前に描かれた建物が八幡宮本社でしょうか(図5)。「経蔵/末社講堂/八幡舞台/若宮/同/末社」と諸社を文字で端的に示しており、細かな社殿の様子よりも山や谷といった地形・配置を重視している図であることがわかります。
八幡宮から南側、由比ヶ浜に向かって目を移すと、図1には合計3つの鳥居が(図6)、図2は八幡宮入り口の鳥居が省略され2つの鳥居が(図7)描かれています。由比ヶ浜寄りの大鳥居は鶴岡八幡宮創建と同時に建てられたのち、台風・地震で幾度か再建されており、両図が描く鳥居が天文21(1552)年に北条氏康が修復したものか、寛文8(1668)年に修復されたものか判断するのは難しそうです。
海岸の東側(向かって右)に目を転じると、いずれの図にも中世の港として栄えた人工島・和賀江島周辺について記されている箇所を見つけることができます。図1が「いわ井じま(飯島)/貞永元年ニつく也」と注記して島内に建物の絵を描く一方(図8)、図2は浜を区切って「和竒江ノツキ嶋、此所ハ貞永元年往阿弥ト号スルモノツクト也」と記します(図9)。飯島は和賀江島が岸に連なる場所の古い地名であり、天保年間(1830~44)に纏められた近世の地誌には和賀江島について「今はもう飯島崎とよばれる」(「今は里人飯島崎と云ふ」、『新編鎌倉志』・図10)と整理されていることから、いずれの図も記載内容に誤りはありません。ただし、地形を理解したうえで図示したかについては疑問が残るところです。
ふたつの「相州鎌倉之図」に共通するのは、どちらも地名の誤記が多数認められることです。図1は浄明寺付近の「くるみが谷」を「たかみ谷」と書き誤り(図11)、図2は材木座の「桐が谷」を「相が谷」とする(図12)などの誤りが見られます。「くるみが谷」の「𛀬(く) 」を「𛁠(た)」、「𛃻(る)」を「𛀙(か)」と間違い、「桐」を「相」と間違ったところを見ると、地名を知らずに字形の似た字と書き間違えたと考えられるでしょう。
鎌倉の地誌は、延宝2(1674)年に徳川光圀が金沢八景、鎌倉、水戸家関係各所を巡覧して調査し、光圀の命を受けた河井恒久らが文献考証・実地調査を経て、貞享2(1685)年に編纂した『新編鎌倉志』を契機として情報が整理されますが、ふたつの図はいずれも『新編鎌倉志』以前、もしくは同時期に作成されたと考えられます。ふたつの図に地名の誤記が多いのは、鎌倉の名所旧跡が整理されて固定化する以前のものであること、鎌倉に土地勘のない者によって作成されたことが一因にあるといえるでしょう。
また、ふたつの図は鶴岡八幡宮周辺から海岸にかけた平地部分についてよりも、谷戸の起伏とその名称を細かく記している点も共通しています。
江戸時代を通じて多く刊行された鎌倉絵図は(図13)のように図式化されたものが多く知られますが、そのような鎌倉絵図にくらべて図1は丘陵地とその間の屋敷・寺社を緻密に描き、谷戸の名称を数多く示していることがわかります。図2も緑色で描かれた丘陵部が図中で目を引きます。谷戸の名称は103箇所も記され、谷戸が兵学の教導にとって重要な要素であったといえるでしょう。
鎌倉幕府政権下においては、その都市構造が平地から丘陵部に広がり、谷間を切り開いて武家屋敷、寺社地が設けられました。室町時代に鎌倉公方が古河に転出すると武家屋敷のあった谷間は空洞化したため、度重なる戦禍や天災もあいまって、江戸時代の鎌倉は荒廃していたという印象をもって語られてきました。しかし、実際には街道沿いの職人集団や鶴岡八幡宮などの社人組織の存在が中世から江戸時代に至るまで継続し近世社会に適合していった様子が近年明らかになってきています。
ふたつの「相州鎌倉之図」からわかる通り、正確な地名や位置が整理されていなくとも、実際に鎌倉を訪れたことがなくとも、鎌倉に土地勘のない三都の庶民や、兵学を学ぶ兵学者や大名・旗本に至るまで、様々な人々が鎌倉に興味を抱いていました。
鎌倉が人気の観光地となる以前は、中世に武家屋敷や寺社が位置した谷戸こそが鎌倉のイメージであったと言えるでしょう。観光案内図で谷戸のイメージが縮小した後も、武家屋敷・寺社が去って荒涼とした谷戸のもの悲しい雰囲気は鎌倉の魅力の一つとして江戸時代の人々を惹きつけたのです。
ふたつの「相州鎌倉之図」が作成されてから約170年後、山鹿素水という人物が浦賀巡覧の調査に赴きます。素水は素行の娘婿が津軽藩に抱えられてから数えて6代目の末裔であり弘化4(1847)年に『相州浦賀巡覧私記』を著しました。調査の途中で鎌倉に立ち寄った素水は鶴岡八幡宮を詣で、建長寺周辺の古跡を訪ねました。非業の死を遂げた大塔宮土牢(おおとうのみやつちのろう)の傍で「断腸して涙襟を湿す」姿からは、江戸時代の人々が鎌倉に求めたイメージが変わらずにある様子がうかがえます。
(寺西 明子・当館学芸員)
参考文献
澤寿郎『鎌倉 : 古絵図・紀行 鎌倉古絵図篇』(東京美術、1976)
白石克「江戸時代の鎌倉絵図―諸版略説」(『三浦古文化』第34号、1983)
白石克「慶応義塾図書館所蔵相州鎌倉之図(江戸時代後期写)」(『斯道文庫論集』20、1984)
古宮雅明「資料紹介 新収蔵の「相州鎌倉之図」について」(『神奈川県立歴史博物館だより』208、2018)
国文学研究資料館『国文学研究資料館特別コレクション 山鹿文庫目録』(2019)
岩田会津『中近世鎌倉の都市史』(山川出版社、2025)
参考資料
- 過去の「今月の逸品」は、「過去の今月の逸品」をご覧ください。

