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五姓田義松《老母図》

学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。

2026年9月の逸品

五姓田義松《老母図》

五姓田義松《老母図》

年代:明治8年(1875年)
寸法:31.0cm×24.3cm
紙・油彩

 「逸品」とは、美術作品を評価する際に用いられる言葉です。もともと仏教用語に由来しており、上品下品(じょうぼんげぼん)という評価軸があって、そこから逸脱するほどに素晴らしいという意味で、「逸品」といいます。今月ご紹介する五姓田義松(ごせだよしまつ; 1855~1915)《老母図》は、まさに逸品というに相応しい作品です。
 描かれているのは、作者義松の母の勢子です。肝臓を病み、伏せっている母の姿を克明に描きとっています。作中にある日付から、この翌日、勢子が息を引き取ったとわかります。その命尽きかける姿を描いた息子の心境はどのようなものだったでしょうか?また、描かれる母はどのような思いだったでしょうか?
 五姓田義松は、父初代五姓田芳柳(ほうりゅう)、母勢子の次男として、1855年に生まれました。そして義松10歳のとき、その将来を父らが考えたうえで、横浜居留地の英国人画家チャールズ・ワーグマンに入門させます。もともと絵が好きだった義松の技量は高まっていったと考えられます。しかし、時代は幕末。不穏な社会情勢のなか、入門して数年はさほどはかどらなかったでしょう。転機が訪れたのは、まさに明治になってから。義松は本格的な修行をしようと、横浜に移住します。それまでは江戸に住み、横浜に通っていたのですが、世の中が大きく変化したことをうけての選択でした。父である初代芳柳も町絵師として活動していましたが、両者ともに移住したかといえば、そうではありません。父よりも一足早く義松が移住します。そのとき、義松13歳頃です。そこで、母勢子は息子に付き従って、一緒に横浜に移住します。父もほどなくして横浜に移住したようですが、父とは一緒に暮らさなかったようです。義松少年は、母の庇護のもと、ワーグマンからの指導をうけ、めきめきと洋画の腕を上げていきました。
 義松は、1871年、16歳頃には、もう横浜居留地の外国人相手に絵を描く商売を始めたようです。その売り上げで、わずかながらも生活ができたのでしょう。徐々に弟子たちも入門し同じ家で暮らすようになります。その弟子たちの衣食住の面倒も、勢子がみたのだと推定されます。そのように献身的に支えてくれる母は、義松にとって特別な存在だったにちがいありません。しかし、彼女を病魔が襲います。どれほどの期間病んでいたかは想像するばかりですが、およそ1年ほどだったと思われます。その病んでいく母の姿を、義松は鉛筆でスケッチしています(図1《母勢子像》, 図2《病母》, 図3《病母》)。
 そして、本作品に至ります。1875年、義松20歳のときです。もう消えかけた命、最期の姿を残し留めるために、義松はしっかりと観察し、克明にその相貌や身体を描きます。ときには荒い筆捌きで描く描写は、まるでフォービスムを思わせます。しかし、このとき、まだ印象派もようやく生まれたばかりです。海外経験もない義松が、あらん限りの画力で描きとる様は、どこか冷酷にも感じられます。また、その息子の姿を見る母の瞳があります。最期に、最愛の息子の姿をその目に焼き付けようとしているのかもしれません。激動の時代を乗り越えてきた母と息子の関係性があって、はじめて誕生した絵だといえます。
 冒頭で、逸品の意味について、説明しました。本作は、まさにその逸品というに相応しい作品です。つまり、肖像画の上手下手を論じるのではなく、肖像画の本質的な意味そのものをあらわにするかのような作品は、通常の価値観、評価軸からは逸脱しているといえます。普遍的な母と子の愛を感じる多くの方が、この作品を見て魂を揺さぶられているのです。義松の代表作のひとつであり、日本肖像画史の逸品でもあるのです。
 さて、本作品は、いよいよ再開する当館、その特別展「入門!神奈川県立歴史博物館」で展示公開の予定です(図1から3は出品しません)。ホンモノの作品に出会いに訪れてください。お待ちしております。

(角田 拓朗・当館主任学芸員)

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