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ハマのウォール街~関東大震災と銀行街のゆくえ~「横浜銀行協会関係資料」

学芸員のおすすめ収蔵資料の魅力を詳しい解説でお伝えする「今月の逸品」。休館中はウェブサイトのみでのご紹介になります。

2026年10月の逸品

ハマのウォール街~関東大震災と銀行街のゆくえ~「横浜銀行協会関係資料」

ハマのウォール街~関東大震災と銀行街のゆくえ~「横浜銀行協会関係資料」

横浜銀行協会関係資料

 一般社団法人横浜銀行協会は、神奈川県に本支店を置く銀行が加盟している業界団体で、地域経済の活性化や加盟銀行同士の連絡などを担っています。今回ご紹介する当館の寄託資料「横浜銀行協会関係資料」は、横浜銀行協会が所蔵している資料群で、横浜銀行協会やその前身である横浜銀行集会所の運営全般を知ることができます。
 当館の旧館の建物は、かつて横浜正金銀行本店本館の建物でした[図1]。そして、この横浜正金銀行は、横浜銀行集会所の創立にも関わった銀行なのです。当館寄託「横浜銀行協会関係資料」の多くは関東大震災以降のものですが、特に戦前の資料からは、横浜正金銀行が地域金融界の取りまとめ役として重要な役割を果たしていたことが窺えます。
 10月の今月の逸品では、当館寄託「横浜銀行協会関係資料」注1)の中からいくつか資料をピックアップして、かつて存在した横浜の銀行街の変化についてご紹介します。

横浜銀行集会所
 1881(明治14)年時点の横浜には、横浜正金銀行本店、第二国立銀行本店、第七十四国立銀行本店、三井銀行支店、第一国立銀行支店、第三国立銀行支店、第百国立銀行支店、第三十五国立銀行支店の計8つの銀行があり、銀行街を形成しつつありました。これらの銀行は、毎年懇親会を開催するなど親睦を深め、1885(明治18)年頃には月曜会(毎月一度月曜日に集まる会)を開催するようになっていました。
 1893(明治26)年12月に集会所創立協議会を開き、翌1894(明治27)年4月には弁天通4丁目78番地に最初の横浜銀行集会所が開設されました[図2]。ここでは、銀行間の連絡のため月に1回の会議(月次会)を開くほか、銀行員同士の親睦も深めたようです。開設当初の横浜銀行集会所組合に加盟した銀行の数は、先ほどの8行に横浜銀行(のち平沼銀行)、横浜若尾銀行、伊万里銀行支店、掛川銀行支店を加えた全12行でした。その後も加盟銀行は増え続け、1906(明治39)年には2代目の横浜銀行集会所[図3]が落成し、同年9月5日には財団法人横浜銀行集会所としての設立認可を受けました。

関東大震災と混乱する銀行界
 1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、横浜の銀行界にも大打撃を与えました。当時、横浜市内には銀行の本支店が42店舗ありましたが、川崎銀行を除いた41店舗すべてが被災しています。建物への被害が比較的少なかったとされる横浜正金銀行ですら、内装の大部分が焼失し屋上のドームも焼け落ちました[図4]。そして、1906年以降、横浜の銀行員たちの交流の場となっていた2代目横浜銀行集会所も倒壊してしまいました。
 震災から2週間経ち、混乱状態も少し落ち着いてきたところで、横浜銀行集会所の加盟銀行たちに動きが出てきます。『議事録(第壱巻)』(横浜交換所作成、1923年9月14日~1928年4月23日、横浜銀行協会関係資料)を見てみると、震災後最初の横浜銀行集会所組合銀行による会議は、9月14日に「奇蹟ノ如ク災害ヲ免レタル川崎銀行横浜支店」にて開催され、全組合銀行21店舗のうち15店舗が参加していたことがわかります。この日は、集会所の事務所を横浜正金銀行の仮設建物(バラック)内に設置することや、横浜正金銀行と台湾銀行の輸出手形業務を除き、各銀行の営業再開についてできるだけ足並みをそろえること、各銀行の営業所については警備隊と打ち合わせることを決定しました[図5]。
 ここで登場する警備隊とは、震災発生に際して発令された戒厳令のもと、救助活動と治安維持活動にあたった陸軍の臨時部隊のことです。その中でも横浜市内を管轄していたのは、神奈川警備隊(9月7日に神奈川方面警備隊と改称)でした。各銀行が営業再開に向けて営業場所を検討する一方で、警備隊を指揮下に置く関東戒厳司令部は、9月13日に今後の軍隊の撤収を見据えた「今後ニ於ケル警備継続要領」を作成します。要領には、銀行の営業再開初日のみ軍隊が直接警護して、以降は各銀行が自ら警備し、軍隊は要求に応じて巡回する形で警備を援助するという方針も含まれていました。横浜銀行集会所の組合銀行も、横浜正金銀行を除いて足並みをそろえて営業を再開しようとしていたため、神奈川方面警備隊は、限られた兵員で複数の銀行を同時に警護する可能性が生じたのです。

 2回目の横浜銀行集会所組合銀行による会議は、9月16日に川崎銀行横浜支店[図6]で開催され、18店舗が参加しました。各銀行の営業場所について警備隊と交渉した結果、兵員に限りがあることから、横浜正金銀行を中心としてできる限り小範囲に集合して営業するようにとの希望が、神奈川方面警備隊司令部から出されました。この件について協議したところ、各銀行が1か所に窓口を並べる「銀行版の公設市場」を設ける案も出たようですが、賛成が少なく否決となります。その結果、警備隊の件に関しては、委員長(横浜正金銀行本店支配人 大久保利賢)に一任することとなりました[図7]。
 9月22日に開催された3回目の会議では、組合銀行の営業再開日が協議されて、支店銀行は9月25日より、本店銀行は9月28日より営業を再開することになりました[図8]。

 震災前から「日本大通の官公署、本町通の生糸貿易商、海岸通は船舶関係、弁天通や馬車道は貿易商と外国人相手の商店など、おおかたの色分けがあった」1)関内ですが、震災後は建物の移動や区画整理などの様々な要因で、よりはっきりと地域的に分かれたといわれています。ハマのウォール街と呼ばれる密集した銀行街の形成要因の一つに、関東大震災後の治安維持を目的とした警備隊との交渉も含まれていたのかもしれません。

よみがえる横浜銀行集会所
 関東大震災の発生から1か月経たずに加盟銀行が営業を再開したものの、復興はまだまだ先のことでした。そうした中、銀行員たちの交流にも、日常を取り戻す動きが出てきます。例えば、1906年9月に加盟銀行の行員同士の親睦を目的として創設された二水会です。二水会は、毎月第2水曜日に懇親会を開催していました。二水会の活動は、『二水会記事 第一号』(横浜銀行集会所作成、1923年12月~1934年2月、横浜銀行協会関係資料)に記録されています。
 関東大震災の発生以降、二水会は開催できていませんでしたが、11月頃より復活を望む声が増え、12月19日に鶴見町(現 横浜市鶴見区)の鶴声館にて第205回二水会を開催し、復活を果たします[図9]。ただし、震災前は横浜銀行集会所で開催していましたので、第206回以降の開催場所は、震災以降横浜銀行集会所が間借りしていた川崎銀行横浜支店の3階でした[図10]。
 その後、横浜銀行集会所組合銀行においても間借りではない集会所が必要となり、1924(大正13)年9月、横浜市太田町3丁目52番地に3代目横浜銀行集会所[図11]が開設されました。180坪の広さの木造2階建てで屋根はスレート葺きの建物でしたが、これはあくまで仮建築として建てられたものでした。ただし、震災後の横浜で集会できる施設が少なかったことから、仮の建築ながら、午餐会をはじめ広く利用されていたようです。二水会も早速、1924年10月8日に第215回例会を新築の3代目横浜銀行集会所で開催しています[図12]。
 しかし、木造の仮建築であった3代目横浜銀行集会所は、10年ほどで老朽化が問題となりました。1933(昭和8)年11月22日に持ち上がった4代目横浜銀行集会所への移転問題は、『新築記録』(横浜銀行集会所作成、1933年11月22日~1936年9月8日、横浜銀行協会関係資料)にその経過が記録されています。

 4代目横浜銀行集会所への移転は、一筋縄ではいかなかったようです。例えば、各銀行の費用負担をめぐって意見が分かれ、住友銀行からは、建物を新築せず既存の施設を借りてはどうかとの反対意見も出されました[図13]。住友銀行を説得して新築することに決まった後も、新たな問題が出てきます。当初は土地を借りて新築する予定でしたが、予定地の変更を余儀なくされ、1934(昭和9)年10月13日の会議の際に土地を購入する方針へ転換したのです[図14]。既に建築設計者を工学博士・大熊喜邦氏に、建築設計助手を横浜高等工業学校(現 横浜国立大学都市科学部)教授の林豪蔵氏に依頼済みであり、企画図面をもとに検討が進んでいる段階でのことでした。同年12月11日に承認された「横浜銀行集会所建築用地買収案」[図15]を見てみると、購入した土地は、もともと渋沢栄一の親戚で横浜で渋沢商店を経営していた渋澤義一氏所有の土地(横浜市中区本町3丁目28番地と北仲町注2)3丁目39番地にまたがる計250坪)であったことが分かります。
 1935(昭和10)年8月以降、清水組による工事が順調に進む中、建物内の設備についても準備が進んでいきます。同年11月に内装の担当が決定します。各階の家具設計を異なる会社が受け持ち、1階を内外木材工芸家具部、2階を三越、3階を高島屋が担当しました[図16]。さらに、4代目横浜銀行集会所には、斎藤素巌氏制作による児玉謙次氏(横浜銀行集会所理事・横浜正金銀行第12代頭取)の銅像を設置することも決まりました[図17]。児玉氏は横浜市の振興を願い震災後の横浜銀行集会所復旧に尽力した人物で、銅像はその功績への謝意を示すとともに、その人格と見識をたたえるものでした。また落成祝賀寄贈品として贈られた家具や絵画も空間を彩りました[図18]。
 1936(昭和11)年7月10日に落成した4代目横浜銀行集会所[図19-1・図19-2](横浜市中区本町3丁目28番地)は、横浜の銀行員や経済人の交流の場としてふさわしい立地と空間を備えて生まれ変わったのです。

おわりに
 関東大震災から10年ほどで復興を果たした横浜でしたが、1945(昭和20)年5月29日の横浜大空襲をはじめ度重なる空襲により、再び焼け野原となります。しかし、関東大震災で倒壊を免れた横浜正金銀行や川崎銀行横浜支店だけでなく、震災後に新築した数々の銀行建築や横浜銀行集会所など、焼け残った建築物も複数ありました。
 終戦を経て、横浜正金銀行本店の建物が東京銀行横浜支店、神奈川県立博物館、神奈川県立歴史博物館と役割を変えながら歴史を紡いできたように、ハマのウォール街の銀行建築たちも、姿を変え、中身を変え、現在まで繋がっています。
 今月10月17日(土)には、工事を終えた神奈川県立歴史博物館が再開館します。当館にいらした際には、かつて横浜正金銀行だった当館旧館の建物や、近くにある旧第百銀行横浜支店[図20]、旧安田銀行横浜支店(現在の東京藝術大学大学院映像専攻キャンパス)[図21]、旧第一銀行横浜支店(現在のBankPark YOKOHAMA)[図22]など、今も残る「ハマのウォール街」の雰囲気を堪能してみてはいかがでしょうか。

(大薗 佳純・当館非常勤学芸員)

注1
以降、当館の寄託資料「横浜銀行協会関係資料」については、「当館寄託」を省略して表記する。
注2
史料では北仲町と表記されているが、1889(明治22)年4月1日の横浜市市政施行により北仲町から北仲通に名称が変わっている。

引用文献

1)中区制50年記念事業実行委員会『横浜・中区史:人びとが語る激動の歴史』中区制50年記念事業実行委員会、1985、p.236

参考文献

横浜銀行集会所『横浜銀行集会所沿革』横浜銀行集会所、1936、横浜銀行協会関係資料
横浜市誌編纂係『横浜市震災誌第三冊』横浜市誌編纂係、1926
吉田律人『軍隊の対内的機能と関東大震災 明治・大正期の災害出動』日本経済評論社、2016
警視庁『大正大震火災誌』警視庁、1925
中区制50年記念事業実行委員会『横浜・中区史:人びとが語る激動の歴史』中区制50年記念事業実行委員会、1985

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