横浜美術史【第Ⅴ期 下村観山】

【第Ⅴ期 下村観山】

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 トピック展示「横浜美術史」の第Ⅴ期では、横浜に住み活動した日本画家 下村観山を特集します。当館では、下村観山の資料を数多く所蔵しています。それらは絵が出来上がるまでの過程や、画家の生活や人となりなどの背景を雄弁に語ります。本解説として、まず、観山の生涯をご紹介することからはじめましょう。

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 下村観山は、明治6年(1873)、和歌山県に生まれました。その後、一家で上京し、絵心が認められたのでしょう、幼くして狩野芳崖に師事します。のち橋本雅邦に学び、中世末から続く狩野派の正統な技術を学んだ、最後の画家となります。今でこそ横山大観、菱田春草ら同世代の日本画家よりも知名度が劣る印象もありますが、しかし、明治大正昭和を通じて、一貫して、日本画家の第一人者であった事実は揺らぎません。

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 明治22年、東京美術学校(現東京藝術大学)の第一期生として入学します。校内展覧会でも優秀な成績をおさめ、卒業後はすぐに助教授に任命されます。明治31年に、師でもあった同校校長岡倉天心が故あって辞職するのに伴い、依願退職します。そして、今日まで続く日本画団体である日本美術院を、天心らとともに創設します。以後、明治30年代は天心らの指導のもと活動する一方、東京美術学校に乞われて明治34年には教授として復職します。師らは同校に戻ることは出来ず、観山のみでした。当時の文化行政を預かる人々の多くが、観山の才能と技術に惚れ込んでいたひとつの証と言えるでしょう。さらに観山への期待は膨らみ、現実となり、明治36年には文部省留学生として、渡英します。海外での学習は、様々な制作に活用されました。
 明治40年、現代美術の祭典である、文部省美術展覧会(文展)が開設されます。その第一回展の審査員として、観山は名を連ねます。以後、審査員を務めつつ、作品も発表しました。制作に集中するため、明治41年には東京美術学校を辞職します。旺盛な制作を続けますが、大正2年(1913)、転機が訪れます。師である岡倉天心が没するのです。それをうけ、盟友横山大観らと日本美術院を再興し、文展に対抗し得る、革新的な日本画の制作を標榜する材や団体展をはじめます。以後は、日本美術院展を中心に作品を発表しました。

 大正2年は、観山にとってもうひとつ大きな転機となる年でした。その前年頃より、天心に紹介され知遇を得ていた原三溪に支援され、横浜市本牧和田山に自宅を構えます。以後、没するまで、和田山のアトリエから多くの作品が生み出されました。狩野派の技術を基礎としつつ、西洋絵画技術や古典技法を学び、渋みのある制作を継続した観山は、当時、多くの若い画家の憧れでもありました。しかし、その高度な技術を継承し、その後名を成した画家が生まれませんでした。晩年まで旺盛な制作を続けましたが、惜しまれつつ、昭和5年(1930)、和田山で没しました。没後の翌昭和6年、大型の画集『観山遺作集』が刊行されます。その題字は、原三溪が筆を執りました。

 以上、履歴を概観しましたが、その履歴を詳細に記すことができるのは、観山に関する文書が多数残されているからです。東京美術学校ほかの辞令、あるいは師岡倉天心からの書簡などです。技術継承を象徴するのでしょう、師橋本雅邦からの筆もあります。観山の制作の背景ということでいえば、日常遣いしたと推定される、筆類、絵の具、絵の具皿などがあり、当時の日本画家の実態を知る上でも貴重な資料です。また、東京美術学校時代に学習のために描きつけた《画稿貼込帖》、天心からうけた講義「日本美術史」のノート、あるいは留学に関する文書類や現地での学習記録でもある《スクラップブック》など、画家観山が成長する過程が詳細にわかる多彩な資料群が当館に収蔵されています。そして、資料群のなかでも圧巻と言えるのが、観山の印章類でしょう。「観山」の字体などのデザインとしての面白さもさることながら、印章という物質の面白さがあります。石、木、金属などの素材のちがい、形態のちがいなどによるこの数の多さは、作品が仕上がった折に捺すことだけを考えたのではなく、身の回りにコレクションする愉しさを観山が感じていたことを想像させます。文房具の楽しみは、古来、画家に共通する趣味ですが、観山もその歴史に連なる人だったといえるでしょう。

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 最後に、作品一点の解説を簡単に記し、観山の妙技をお伝えしたく思います。
 《闘鶏》は制作年不詳ですが、およそその筆の力強さなどから、大正半ばごろ、最も観山の力がみなぎっていた時期と考えられます。墨線のみで描かれているとはいえ、その肥痩、その濃淡、筆さばきの速さ遅さ、丁寧さ粗さなどを巧みに変化させることにより、画面に多くの動きを与えています。たとえば、画面右側に座る人々の遠近感を、墨の濃淡で表します。主人公然と悠然に立つ鶏の、その胸から腹、腿の描線の力強さは、その力強さを直接的に表現します。その鶏に負けたのでしょう、画面左の鶏がざっと素早く逃げる様が、蹴りあがった地面の砂の舞い上がり、吹き流れる尾羽などの筆さばきによって表されています。限定された色だからこそ、なおさらにその技術の高さが認められるでしょう。
 資料と作品は、ある画家を理解する、評価するためには、双方が必要です。下村観山は、その双方が揃っている稀有な日本画家なのです。

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