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あしがらの古文書 ~矢倉沢村田代家文書 矢倉沢関所関係資料~
ウェブサイトへの記事掲載と常設展示室でのギャラリートークの連動企画「今月の逸品」は、当面の間、ウェブサイトのみでの展開とし、詳しい解説で学芸員おすすめ資料の魅力をお伝えします。
2023年10月の逸品
あしがらの古文書 ~矢倉沢村田代家文書 矢倉沢関所関係資料~
10月の逸品は、特別展「足柄の仏像」[2023年10月7日(土)~11月26日(日)]にちなみ、「あしがらの古文書」と題して、今年度ご寄贈いただいた足柄地域を代表する古文書資料群である矢倉沢村田代家文書から、矢倉沢関所に関する資料をご紹介します。
矢倉沢村(やぐらさわむら:現南足柄市矢倉沢)は、相模国足柄上郡の西端に位置し駿河国境(静岡県との県境)に接し、足柄山や矢倉岳を抱える山村です。村内には東西に矢倉沢往還が貫通しており、通行人を取り締る関所「矢倉沢関所」が設置されていました。
田代家は代々矢倉沢村の名主役を務めた家ですが、その歴史は古く、鎌倉幕府の御家人田代冠者信綱を先祖としています。また、明治時代に作成された矢倉沢村の地誌である「皇国地誌」(資料写真1「皇国地誌」田代家文書)には「最乗寺所蔵の田代家系図に拠れば、田代家の先祖である田代信貞が天文17年(1548)8月に矢倉沢関を建て、信貞の子田代冠者信綱(注1)が当村へ来て住んだ。伊豆国田代村(注2)より寺を移した」といった旨の記述もあり、田代家が古くから矢倉沢に居住し、関所とも関係があったと推測されます。
矢倉沢関所が設けられた矢倉沢往還とは、江戸城赤坂御門を発し、溝口(川崎市)・長津田(横浜市)・厚木(厚木市)・伊勢原(伊勢原市)・曽屋(秦野市)・松田惣領(松田町)・関本(南足柄市)などを通り、足柄峠を越え、駿河国御厨地方へとつながる道です。足柄峠を越える道(足柄道)は古代より官道として利用されており、古事記や万葉集などにも「足柄」の名を見ることができます。箱根峠を越える道が整備されると主要街道ではなくなりますが、足柄道の一部は矢倉沢往還となり、富士山や大山へ向かう信仰の道として、箱根峠を迂回して東海道三島宿へ抜ける東海道の脇往還としても発達しました。東海道箱根宿には有名な箱根関所がありますが、東海道だけでなく周囲の往還の根府川(小田原市)・谷ケ・川村(山北町)・仙石原(箱根町)・矢倉沢の5カ所にも関所が設けられていました(図1)(注3)。
では、田代家文書から矢倉沢関所を詳しく見てみましょう。「天保七年矢倉沢村絵図」(資料写真2・トレース1)は矢倉沢村全体を描いた絵図です。
この絵図は幕府による国絵図調査のために作成された絵図で、村内の土地利用の様子を色分けして描いているのが特徴です。赤で引かれた線が道で、矢倉沢往還は図の下部中央「〇小田原往来」より上部右側「足柄峠」「〇竹之[ ]甲州信州往来」へと延びる道です。途中画面上部、民家と思われる△印がある箇所が地蔵堂集落で、ここから「猪鼻山」(金時山)・仙石原へ抜ける道も描かれています。画面下部、青色で描かれた2つの川(左が狩川・右が内川)周辺に川を横切るように柵が描かれている部分がありますが、こちらが矢倉沢関所です。狩川沿い・矢倉沢往還には表関所が、内川沿いには裏関所があり、矢倉沢村には二ヶ所の関所が設けられていました。
では、もう一点の絵図を使って、現在の様子と比較してみましょう。こちらの絵図は「相州足柄上郡矢倉澤村絵図」(資料写真3・トレース2/資料写真4・トレース3)で、地名が詳細に記されています。画面右下に「往還小田原ノ方」と記され、画面上部中央「往還御厨道」へと抜ける太い道(赤色)が矢倉沢往還です。現在では、凡そ同じルートを県道78号線御殿場大井線が走っています(写真1)。旧街道は御殿場大井線から脇道の坂を下り(写真2)、関場という地域に入ります。関所は山を背に狩川の狭い河岸段丘上に作られており、川へ逃れようにも狩川へ至る崖は急峻であるため、この場を通らずには進むことができない、まさに交通の要衝に設けられていたと言えるでしょう(写真3:関所前の道・写真4:関所の碑)。
絵図で関所手前「切通シ」(写真5:江月院から見た切通し。現在の県道726号矢倉沢山北線)と書かれている道を北に進み、内川(写真6)を越えると本村という地域で、名主宅(写真7:名主宅跡地)や寺院「江月院」(写真8)、村の鎮守である「白山(社)」(写真9)があり、絵図には「裏矢倉沢村」と書かれていますが、こちらが村の中心であったと考えられます。本村には「裏御関所」(写真10:裏関所前の道)が設けられ、絵図では「御関所」より柵が山を越えて張り巡らされており、裏関所と繋がるかのように描かれています。裏関所は旅人の通行は禁止、矢倉沢村の者が村内の田畑へ行く際にのみ通行が許されました。
矢倉沢関所は領主である小田原藩の管理を受け[宝永噴火後一時幕府領となった時期も関所管理は小田原藩が継続]、関所役人には番士・定番人・足軽らがおり、番士は小田原藩からの派遣、定番人は関所周辺に居住して世襲で務めたようです。関所役人は現在の入国審査官のような役割で、矢倉沢関所では、江戸方面へ向かう人は男女とも基本的に無審査で通し、上方へ向かう小田原藩領外の女性は通行禁止、男性は手形を改めて通しました。但し、小田原藩領の女性が同藩領の御厨へ向かう際に限り、家老の証文を所持すると通行することができたそうです。また、矢倉沢関所の先には乳の病にご利益があると信仰をあつめる地蔵堂がありますが、関所から一里以内の村の女性が地蔵堂参詣に行く場合に限り、その村の名主による手形で通行が許されました(資料写真5「地蔵堂女人関所手形」)。
村内に関所があるために、矢倉沢村の人々は様々な負担が課されます。富士山信仰者の通行増大のため、矢倉沢村名主より出された関所役人の増員願に対し、認められない旨の返答書が小田原藩より出されています(資料写真6「関所役人増員不許可通知」)。矢倉沢名主が関所役人の増員を願うということは、矢倉沢村名主や村人たちが関所業務に動員されていたのでしょう。さらに、関所建物や周辺の柵、生垣の維持管理についても、関所の建物は足柄上郡の村々が、関所周辺の柵や生垣は小田原藩領である駿河国御厨領の村々が普請を担っていました(資料写真7「矢倉沢御関所御普請御修復等につき口上書」)。
一方で、矢倉沢関所では「十分一銭」と呼ばれる通行税を、関を通過する物品に課しており、「矢倉沢諸色拾分一取立帳」(資料写真8)には課税対象物155品目が記されています。この十分一銭は矢倉沢村の村人にも課され、村内の関所上の山畑などから産出する炭・板だけでなく、天明5年より関所を通らない産物にも課税されていると、免除を願い出ています(資料写真9「拾分一銭免除願」)。関所には十分一銭を集積する蔵も建てられていました。
今回ご紹介した田代家文書関所関係資料は、常設展示テーマ3トピック展「あしがらの古文書 矢倉沢関所」[2023年9月27日(水)~12月3日(日)]ですべてご覧いただけます。また、12月6日(水)からはトピック展「あしがらの古文書 元禄地震 富士山宝永噴火」として、江戸時代前期の足柄地域に甚大な被害をもたらした災害を、矢倉沢村田代家文書他からひもときます。こちらもぜひご覧ください。
最後に、貴重な資料をご寄贈くださいました田代家の皆様に、心よりお礼申し上げます。
(根本 佐智子・当館非常勤学芸員)
主な参考文献
『南足柄市の村明細帳 下―北足柄・福沢・岡本地区の江戸時代―』(南足柄市文化財調査報告書第十三集 南足柄市教育委員会 1982)
飯田稔「矢倉沢田代氏と伊豆田代郷」(『史談足柄』18号 足柄史談会 1980)
『南足柄市史』2・3・6(南足柄市 1988・1993・1999)
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