展示

【テーマ5】現代「現代の神奈川と伝統文化」

常設展示 現代「現代の神奈川と伝統文化」

※常設展の展示物は随時入れ替えを行っています。下記で紹介している資料が展示されていない期間もありますので、ご了承ください。

現代の神奈川県は、関東大震災と第二次世界大戦時の空襲という二つの大きな被害を乗り越えて、今日に至っています。

昭和6年(1931)の満州事変以降、日本は戦争への道を歩みはじめ、県下には陸海軍の基地や軍需工場が数多く設置されました。昭和20年(1945)に長く苦しい戦争は終結し、代わって占領軍の進駐と接収が始まると、日本の政治経済体制は大きく変化しました。そして、昭和30年代後半から40年代にかけて日本の経済は急激な成長を遂げ、人口が増加して社会資本が整備されていく一方で、公害などの社会問題も発生しました。

都市化が進んだ農山漁村では、従来の相互扶助の変化・農地の宅地化・他所からの新住民の移住による新たな地域社会の形成など、長い暮らしの中で培われ伝えられてきた生活様式や生活用具が姿を消していきました。しかしながら、年中行事・冠婚葬祭・祭礼など「ハレ」の行事には今日でも地域ごとに伝えられている伝統的な文化が数多く残されているものもあります。

現代展示室では、関東大震災を起点として高度経済成長期に至る時代の変化と、神奈川県下の様相を紹介しています。

展示内容

関東大震災を越えて

大正12(1923)年9月1日に関東地方を襲った大地震は、神奈川県内全域に大きな被害をもたらしました。横浜の市街地ではほとんどの建築が倒壊し、地震直後に火災が発生したため、多くの人命が失われました。また、震源に近い県西部の被害も甚大なものでした。

横浜大震災実況(絵葉書)

関東大震災で大きな被害を受けた横浜市は、震災からの復興を記念し、産業貿易の発展を目指すことを目的に、昭和10(1935)年3月から5月まで復興記念横浜大博覧会を開催しました。震災の被害とともに、復興の過程にも注目してみてください。

昭和恐慌と社会変化

関東大震災後の急速な都市化によって、「モダン生活」という生活様式が広がります。都市部ではガスや電気が普及し、ダンスホールやカフェーといった娯楽の場が賑わいました。一方で昭和恐慌といわれる大不況によって失業者が街にあふれ、社会運動が数多く発生しました。

神奈川県鳥瞰図(部分)

この時期には交通網の整備などにより、現在の神奈川県に通じる社会の骨格が出来上がりました。復興を遂げた神奈川県の姿を描いた「神奈川県鳥瞰図」は、鳥瞰図絵師として有名な吉田初三郎が描いたパノラマ絵図です。当館の現代資料を代表するものであり、一年のうち期間を限定して公開します。

戦時体制と敗戦

昭和6(1931)年の満州事変以降、日本は戦争への道を歩みはじめます。首都に隣接する神奈川県は軍事的な要衝として、横須賀や相模原周辺に多くの軍事施設が設置されました。さらに、京浜工業地帯は軍需物資を生産する国内有数の工業地帯となり、「軍都神奈川」が生まれました。

国策湯丹保

戦時体制は人びとの生活にも暗い影を落としました。供出、配給、納税、貯蓄など、生活の細かな部分にまで統制が及んだのです。展示資料の素材やデザインに注目して、生活の変化について考えてみてください。

占領から講和へ

昭和20(1945)年8月15日に長く苦しい戦争は終結しました。マッカーサーの占領政策は日本の政治経済体制を大きく変えたことから、第二の開国(昭和の開国)ともよばれます。神奈川県では土地と建物が大規模に接収され、人びとの生活はすぐには回復されませんでした。

よい子の交通双六

この頃には、戦争中に禁止されていた英語への関心が急速に高まりました。展示資料に記載された英語の表記を通じて、当時の人びとが直面した文化の変化を探ってみましょう。

高度経済成長と環境の変化

昭和30年代後半から40年代にかけて日本の経済は急激に成長を遂げます。とくに昭和39年(1964)開催の東京オリンピックをきっかけに、新幹線や高速道路などが整備され、上下水道など社会資本が整備されていきました。神奈川県に移り住む人が急増しました。

東京オリンピックポスター

昭和39年(1964年)にアジアで初めて開催された東京オリンピックは、高度経済成長期を象徴する一大イベントでした。このオリンピックに関係する資料を通して、当時の人たちの高揚感を紹介します。

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