展示

【テーマ4】近代「横浜開港と近代化」

常設展示 近代「横浜開港と近代化」

ここでは、日本の一大転換点となった開港前後における神奈川の近代化の諸相を紹介します。

市民革命をへて18世紀後半から急激な工業化を進めた欧米諸国は、18世紀末になるとアジアへの進出を強めました。1853(嘉永6)年、前年にその来航が予告されていた米国東インド艦隊司令長官ペリーが、最新鋭の蒸気軍艦2艘を含む艦隊を率いて来航すると、翌年幕府は通商を拒否しつつ条約を締結しました。そして1858(安政5)年米・蘭・露・英・仏国と通商条約を締結し、神奈川(横浜)をはじめとする5港が世界へ向けて開かれることになりました。

開港後の横浜は、西洋文化をいち早く取り入れる場であるとともに、日本文化を海外へ発信する場でもありました。来日外国人が洋画や写真技術を伝え、陶磁器や漆器など、日本の伝統工芸品が海外へ輸出されています。また、幕末には横浜の街や外国人を題材とした浮世絵が数多く制作され、異国情緒あふれる横浜の様子が紹介されました。さらに、戊辰戦争を経て成立した新政権は、新橋―横浜間に鉄道を開通させるなどの欧化政策を推し進め、工業国家を目指します。その一方で、民権思想に触れた者たちは、藩閥色の強い新政権への反発を強め、県下に数多くの民権結社が組織されました。

展示内容

蒸気船が導いた新たな時代

「鎖国」下おいてオランダ、中国、朝鮮、琉球との交流は限定的でした。18世紀半ば以降、工業化を進めた西洋諸国の船舶が日本近海へその姿を頻繁に現し、また1840年に隣国中国で始まったアヘン戦争情報は、「鎖国」日本を揺るがすものでした。そして、1853年ペリー率いる蒸気船は、当時の最先端技術の象徴であり、新たな時代の幕開けを予兆させるものだったのです。かながわを舞台として、日本の近代は始まりを告げたのです。

「黒船」模型 縮尺:1/50

ここでは、2つの点について注目してください。ひとつは、「鎖国」といっても、国を完全に鎖していたわけではなく、日本と世界は人、モノ、情報を通じて交流していたことです。そしてもう一つは、来航したペリーは、蒸気船や電信機、鉄道模型など、当時の先端技術で作られた機器を具体的に日本人に見せたことです。アメリカの軍事力がことさら強調されますが、それだけでなく西洋の技術力、文化力も日本の開国に一役買っていたのです。

世界へ開かれたみなとYOKOHAMA

安政5ヵ国条約の規定により、のちにYOKOHAMAとして知られるようになる神奈川は1859年7月1日(安政6年6月2日)に開港します。人家もまばらな砂州であった横浜は埋め立てられ、外国人が居住することが許された外国人居留地、日本人商人が店を構える日本人町、そしてその中間に官庁街がつくられ、商取引を行うことができる区域である開港場として整備されます。人、モノ、情報の交流はここ横浜を通して行われるようになったのです。

ウィリアムズ女史日本旅行記念蒐集資料 1897年

横浜へ到着した外国人は、半径10里四方(約40キロ)を旅行する自由は認められましたが、さらに内地を旅行するためには、現在のパスポートにあたる「内地旅行免状」を、神奈川県から発行してもらう必要がありました。この資料群は、「内地旅行免状」を手に旅行した、アメリカ人女性が保管していました。まだ、日本のことがよく知られていなかった時代において、このような旅行者によって日本の様子が西洋へ紹介されていったのです。

文明開化の音

1868(慶応4)年1月に勃発した戊辰戦争の戦火は、現在の神奈川県域にもおよび、同年5月には箱根戦争が始まります。戦争に勝利した新政府は、開港場を管轄する横浜裁判所を設置し、1871(明治4)年の廃藩置県後には県域に神奈川県と足柄県が成立します。明治政府はまた、新橋-横浜間にわが国初の鉄道を敷設するなど、西洋文明を採り入れた近代化政策を進めていきます。横浜と神奈川県域は外国文化摂取の最前線として機能しました。

RAILWAY STATION AT YOKOHAMA(「横浜写真アルバム」所収)

日本初の鉄道は1872(明治5)年10月14日(旧暦9月12日)に新橋-横浜間で開業しました。以後、鉄道網は全国へと拡大していき、日本の近代化と工業化に大きな役割を果たすこととなります。政治の中心である東京と外国貿易の窓口である横浜を結んで走った蒸気機関車は、まさに文明開化の象徴と言えるでしょう。このコーナーでは、初代横浜駅の彩色写真(パネル)や蒸気機関車の模型など、創業期の鉄道関係資料をご紹介しています。

近代化と神奈川

明治政府は、幕府から横須賀製鉄所の建設を引き継ぎ、横須賀造船所(のちの横須賀海軍工廠)として整備し、新しい産業を育成するために内国勧業博覧会をはじめとする博覧会や共進会を各地で開催するなど、工業化政策を推進しました。また、西洋の民主主義思想が広がると、政府批判や国会開設要求などが高まり、各地で自由民権運動がさかんになります。神奈川県内の自由民権運動は、当時県域であった三多摩地方で特に活発に展開されました。

堤石鹸商標

このコーナーでは、堤石鹸の商標を展示しています。堤石鹸は、久良岐郡磯子村出身の堤磯右衛門が手がけたものです。堤は横須賀設鉄所のお雇い外国人から石鹸の製造方法を学び、日本への石鹸輸入量が多いことから、国益のために石鹸製造を志します。横浜の三吉町に製造場を建設して、1873(明治6)年に洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功し、1877(明治10)年に開催された第1回内国勧業博覧会で花紋賞牌を受賞しています。

横浜正金銀行

横浜正金銀行は、西南戦争以後の銀貨(正金)と紙幣の差価解消と貿易の増進を目的として、福澤諭吉や横浜の貿易商らが発起し、大蔵卿(現在の財務大臣)大隈重信の支援を受けて、1880(明治13)年2月28日に開業しました(資本金300万円)。1887(明治20)年に制定された横浜正金銀行条例により外国貿易関係業務を専門とする特殊金融機関となり、第一次世界大戦期には世界三大為替銀行の一角を占めるまでに発展します。

竣工当時の横浜正金銀行本店

このコーナーの中央に置かれた建物の模型と、壁面の大きな世界地図にご注目ください。模型は現在当館の建物となっている横浜正金銀行本店(1904年竣工、重要文化財)のものです。また、世界地図には、1930年代後半の横浜正金銀行の本・支店・出張所の位置が示されています。中国・アメリカ合衆国・ヨーロッパだけでなく、インドやアフリカ・南米にも店舗網を持っており、まさに世界規模で活動していた銀行であったことがわかります。

横浜浮世絵

安政6(1859)年6月の横浜開港後、横浜で起こったできごとは人々の関心を集めました。その好奇心に応えるため、メインストリートである本町通、港崎(みよさき)遊郭などの町の様子、さまざまな国の男女の容姿と彼らの母国、次第に増えた洋風の建造物や初代横浜駅から伸びる鉄道など横浜でのできごとを描いた浮世絵が出版されました。今ではこのような浮世絵を「横浜浮世絵」「横浜絵」などと呼んでいます。

貞秀「神名川横浜新開港図」

横浜浮世絵は約6週間で展示替をしているので、「この作品!」と1点をあげることはできません。例えば、横浜の町並みを描いた作品では、海と山手地区の位置関係、今もメインストリートである本町通、さらに港崎遊郭は横浜公園あたりであるという手掛かりをもとに、現在の光景と照らし合わせてみてはいかがでしょうか?開港当初、日本人が興味津々であった新しい港町、横浜が身近に感じられることでしょう。

かながわの近代絵画

横浜が開港し、西洋の美術に関する文物が、質量とも豊かに、一挙にもたらされました。当館では、横浜に立地することから、西洋美術の影響をうけた幕末明治期の美術作品や資料類を収集し、来日英国人画家ワーグマン、横浜で名を上げた五姓田派、石版画や銅版画など多彩なコレクションを誇ります。近代美術の曙は、横浜にあったのです。

五姓田義松 横浜西太田村ノ村落 明治5年

五姓田義松は幕末明治初頭の横浜でワーグマンに学び、西洋絵画技術を習得した画家です。義松は居留地という環境で、外国人の嗜好にあわせた作品を描きながら生計をたてました。本作も何気ない風景ながら、湿潤な大気を水気の多い筆でとらえることに成功しています。このような研鑽を積み、義松は明治前期最高の洋画家となったのです。

輸出工芸と横浜のやきもの

開港後の横浜には、諸外国へ輸出する漆器や陶磁器などを手がける工房や、取引を行う美術商が集まるようになりました。陶磁器では、宮川香山の眞葛焼が窯を構え、内外の博覧会で高い評価を得る作品を世に出しました。関東大震災以後、多くの工房や美術商は横浜を離れましたが、眞葛窯は存続し、また三代井上良斎も横浜に窯を開くなど、地元に根ざしたやきものが生まれました。

高浮彫牡丹に眠猫覚醒蓋付水指(田邊哲人コレクション)

開港後の横浜では、前代から続く技術力に支えられ、輸出先となる欧米諸国の生活空間に映え、かつ「日本」を鮮烈に印象づけるような意匠を持つ、独特のやきものが生み出されました。西洋と出会った日本が生み出した新たな美をお楽しみください。

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